ウイリアムズ姉妹が7年ぶりに世界1、2位を独占
ビーナス・ウイリアムズが今週更新されたランキングで7年ぶりに2位に浮上した。昨年10月から1位を維持する妹セレナの順位は変わらず、ウィリアムズ姉妹がトップ2を独占。同じことは過去通算45週(うち41週はセリーナが1位)あったが、最後は03年5月で早7年が経っている。
ビーナス・ウイリアムズが今週更新されたランキングで7年ぶりに2位に浮上した。昨年10月から1位を維持する妹セレナの順位は変わらず、ウィリアムズ姉妹がトップ2を独占。同じことは過去通算45週(うち41週はセリーナが1位)あったが、最後は03年5月で早7年が経っている。
【9月9日 AFP】英軍は8日、同軍部隊が2003年の連合軍のイラク占領後にイラク南部バスラ(Basra)で拘束したイラク人男性が死亡した事件について、調査の結果、この男性が英軍兵士たちから「いわれなき暴力」を受けていたことが明らかになったと発表した。
調査によると、ホテルのフロント係をしていたイラク人のバハ・ムーサ(Baha Mousa)さん(当時26)は、2003年9月に他のイラク人9人と共に英陸軍ランカシャー連隊に拘束され、頭巾をかぶせられた上で暴行され、過酷な環境に置かれた。
2人の子をもつ父親だったムーサさんは、拘束から36時間後に死亡。肋骨や鼻の骨が折れるなど、体の93か所を負傷していた。
!doctype>迷った理由はいろいろあって、いくぶん複雑なのですが、そういう込みいった話はみなあとまわしにして、とりあえずは歌詞を見てみましょう。日本語なので、あれこれいう必要がなくて、今夜は左団扇です。
◆ 盛夏にはじまり…… ◆◆
今回は歌詞をテキストにしません。かわりに、当時のLPの歌詞カードをスキャンしたJPEGを使わせてもらいます。手書きで、変則的なレイアウトをしているのため、まず全体像のJPEGをどうぞ。
では、ファースト・ヴァースのみを以下に。
うちのHDDには5万曲近いファイルが入っていますが(クレイジー・キャッツの「五万節」を思いだして、まずいですよね、検索ソフトの検索結果の数字は47035曲。これにプラスすることの、検索から除外している日本の曲、で、ほぼ5万曲なのです)、たぶん、どの夏休みの歌もミドルティーン以上の話で、小学生の夏休みを歌ったものというのは、この曲の他には存在しないのではないでしょうか。しいていうと、ジェリー・ゴーフィンが書き、デイヴィッド・クロスビーが「わたしはこれでバーズをやめました」といっ ている(好きにしろ! おまえなんか口先だけの業界ゴロ、ジェリー・ゴーフィンは大作詞家だ)、Goin' Backが近い雰囲気をもっているか、というあたりです。
考えてみればそれも当然で、Summertime Bluesでエディー・コクランがいっていたように、「助けてあげたいのは山々だけれど、まだ選挙権がないんじゃね」なんです。小学生はバイヤーではない、よって小学生をあつかった歌詞は商売にならない、とまあこうくるのでしょう。はっぴいえんどが売れなかったのも当然か、とまではいいませんがね。
◆ 夏はひと色ならず ◆◆
つづいて、セカンド・ヴァース。
まず、七月の夕方に蜩が鳴きはじめるのが夏の開幕、つづいて油蝉の鳴き声がフェイドインし、そしてミンミン蝉が登場すると、うだるような暑さになります。ツクツク法師が鳴きはじめると、ああもう夏休みが終わっちゃう、なんて、すくなくともわたしが小学生だったころには感じたものです。
というわけで、ほかの方はいざ知らず、わたしはこのヴァースで、ああ、夏休みももう指折り数えるほどなんだな、と感じます。
!doctype>・ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合、一般的には、われわれの現代の新聞はゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。<十七>
・重ねて述べるが、臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては、盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか? 彼らが王者に見たいのは力、力、力の権化なのである。<二十三>
・ダヴィデ王の子孫のうちの数人が、相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には、政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが、常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は、このような秘義を授けられたことがない者には、政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ、何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ、私がこれまでに述べたような計画の実際化や、政治経済運動や社会科学研究の全成果−一言で言えば、人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理−が伝授される。<二十四>
・たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ、われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には、万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。<二十四>
・ユダヤ王は自分の感情、とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも、荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも、明晰に見る力を殺ぎ、思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。<二十四>
・あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。(申命記、七章六)
・主はあなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。
(申命記、七章二)。
・世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼らはことごとく空皮に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師>
・神言い給う、我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の為に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート)
・人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ゼバ法師>
・もしイスラエル人無かりせば、この世に幸福なかりしならん。これ申命記二八の八に記されたる如し。またイスラエル人無かりせば、天の諸星も昇らざるべし。これエレミヤ記三三の三五に記されたる如し。また地の上に雨の降る事なかるべし。これ申命記二八の一二に記されたる如し。<シメオン・ハダルサン法師>
・選ばれたる民のみ永遠の生命を受くるにふさわしく、他の国人はロバに等し。<アバルバネル法師>
!doctype>No.15です。
影ながら応援させて頂いていましたが、何とか解決できそうな雰囲気まで持っていけたようで、
他人事ながら、私も安心しています。
まずは、お疲れ様でした。
今回の件では精神的負担がかなり掛かっただろう、と心中お察しします。
旦那さまが単身赴任との事で、お一人で悩んでおられた毎日はさぞ辛かった事だろう、と思います。
やはり、辞めた店員の仕業でしたか。
ソフトバンクも、隠そうとせずにもっと早い段階で質問者さまや他の被害者に対応していれば良かったのですがね。
警察が動いてヤバイから謝ろう、金一封で揉み消そう、とは・・・。
ソフトバンクユーザーとしては、ユーザー第一主義で通して欲しいものです。
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Please contact the server administrator, webmasteand inform them of the time the error occurred, and anything you might have done that may have caused the error.
!doctype>●一番困ったのはレバノン政府である。
突然のパレスチナ人の大量流入とイスラエルの執拗な報復攻撃は、レバノン内部で築かれていた微妙な勢力バランスをぶち壊した。イスラエル政府はレバノン政府に対して、PLOのテロ活動をどうにか止めさせるよう圧力をかけるが、弱小なレバノン政府には到底無理なことだった。レバノン政府は1万5000人の軍隊しか持っていなかったため、ヨルダン国王のような強い態度をPLOに示すことはできなかったのである。
レバノンの国旗
●そこで、レバノン政府はPLOとある合意に達した。
PLOに南部レバノンの「アルクブ地区」を訓連基地として与えるが、PLOはそこからイスラエルへの攻撃を仕掛けることはしない、というものだった。
この「アルクブ地区」は俗に「ファタ・ランド」と呼ばれる。PLOにとっては唯一の聖域である。この合意は、1972年6月に文書によってなされたが、それはあくまで表面的なものであった。そのような約束は決して守られないことはレバノン政府もPLO側も十分に知っていたからだ。ただこの合意を取り交わし、PLOに「ファタ・ランド」を活動舞台として与えることにより、少なくともイスラエルの報復は「ファタ・ランド」だけに絞られるとレバノン政府は考えた。
!doctype>(大阪の高層ビルを語るスレです。反高層ビル、ネガティブ情報、煽り、大阪への批判、他地域との比較や
高層ビルに関係無い話等はご遠慮下さい。主観による「○○は日本一」という表現も、荒れる原因となるので控えて下さい。)
<前スレ>大阪の高層ビル・再開発 42 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/5980/1324213506/
うめきた先行開発区域プロジェクト グランフロント大阪
大阪駅北地区2期開発区域(北ヤード)
梅田阪急ビル建替
梅田3丁目計画(大阪中央郵便局)
中之島フェスティバルタワー(朝日新聞)
中之島3丁目共同開発
新・新ダイビル(仮称)
京阪・大林 中之島共同開発
リーガロイヤルホテル再開発
あべのハルカス
住友倉庫南堀江複合施設建設計画
大阪市環境影響評価手続き実施事業一覧
まとめwiki http://www35.atwiki.jp/next_osaka/
シービーアールイー関西支社長の植田晃生は「在阪企業や官公庁の再編を中心にテナントの移転の動きがここにきて活発化しており、梅田を中心とした需要が集中するエリアではすでに賃料が底を打ったと見られている。
今後は北ヤード開発が牽引力となり、全国企業の拠点分散の受け皿としてもますます引き合いが高まる� ��期待される」と述べています。
ここの土地を何処が取得するか判りませんが、タワーマンションに可能性がありますね。今後注視していたいと思います。
敷地はざっと見たところ2500〜3000岼未任靴腓Δ?
まだ解体工事に入る様子はありませんでした。
パークホテル臨海閉館のおしらせ
現状の建物
1979年築(2003年に改装) だそうです。12階建て
> また、大阪駅北側のうめきた地区の2期開発について、官民共同で取り組むことを確認。経済界が府市統合本部の都市魅力戦略会議に加わることも決まった。
問.G8サミットとは何ですか?
G8サミットとは、日、米、英、仏、独、伊、加、露8か国の首脳及び欧州委員会の委員長が参加して毎年開催される首脳会議です。
狭義のサミットは首脳会合を意味していますが、首脳会合の前に開催される外相会合及び蔵相会合を含めた全体をサミットと呼んでいます。
問.G8とは何の略ですか?
公式な定義はありませんが、一般的に首脳会議に参加する8ヶ国の総称としてのGroup of Eightを意味しています。
問.サミットを他の国際会議と比較した特徴は何ですか?
!doctype>1696年-1787年
アルフォンソは、イタリアのナポリの貴族の家に生まれ、幼いころから母親に信仰深く育てられた。語学力に優れた彼は、小学生のころからラテン語、ギリシャ語を学んだ。法律の勉強をして、17歳には法学博士の学位を取得し、弁護士となって多くの人々を助けた。しかしある日、必ず勝つと思われた訴訟事件に、自分のミスで負けてしまったことを機に、彼は法廷から退き、社会的地位を捨て、聖職者になる決心をした。
1726 年に司祭となったアルフォンソは、有名な説教家となり、1730年にスカラに女子贖罪主会(レデンプトリスチン)を創立した。1732年には数名の同志とともに男子レデンプトール会の創立に着手し、内外からの試練に遭いながらも、1749年に教皇から正式に認可された。創立から42年間にわたり、総長として会の指導に献身し、その後13年間は、教区の司教として務めた。その間、倫理、修徳、司牧神学に関する本を数多く書いた。日本語に翻訳されたものに『完徳のしおり』『聖体訪問』などがある。また彼は、カトリック倫理神学の体系化の完成に貢献し、その著書『倫理神学』は、不朽の名著として知られている。
日本においてレデンプトール会は、代々木、鎌倉、諏訪、舞鶴、宮津、吹田、長崎、鹿児島、徳之島で司牧、施設の� �営にあたり、女子の修道会レデンプトリスチン(厳律至聖贖罪主女子修道会)は、鎌倉、長崎、西都にある。
286年-371年
エウセビオは、イタリアのサルデェニアで生まれ、ローマで教育を受けた。344年ころにベルチェリの司教に任命され、司祭たちのための修道会を創設して、共同生活と霊的生活を奨励した。
当時、アリウス派による異端(キリストの神性を否定する)が広まり、ときの皇帝もそれを擁護していた。エウセビオは、神学者アタナジウスや、他の聖職者とともに異端に反対したため、パレスチナに追放された。 361年に皇帝が亡くなり解放されたが、その後も彼は仲間とともにアリウス派と闘い、生涯を正統信仰の擁護にささげた。
1811年~1868年
ユリアノは、1811年、フランスのラ・ミュール市の貧しい職人の子として生まれた。賢い少年だったので、聖体を敬っていた信仰深い母は、ユリアノが司祭になることを望んでいた。しかし、貧しかったので学校に行かず、手に職をつけようと働いた。ユリアノ自身も司祭になることを望んでいたので、仕事を終えてから学生の友人から勉強を教わっていた。
18 歳のとき、無原罪の聖母修道会の司祭の助けで同会に入ったが、遅れをとりもどそうとした猛勉強で体をこわし退会した。聖母の助けを願い、23歳であこがれの司祭になった。その5年後マリア会に入会し、聖体に対する信心を深めていった。リオン市近郊の聖母マリアの聖堂でよく祈っていたが、何回となく聖母の出現を受けた。聖母は、聖体を敬う修道会を創立するようすすめたので、マリア会を退き同志3人と聖体会を創立した。聖体会は、聖体の永続礼拝、信者たちの聖体拝領の準備、信徒の黙想会や聖体礼拝を指導した。ユリアノは、ピオ10世教皇が提唱した聖体信心会や聖体大会の先駆者として活躍したが、力を使い果たし、57歳のとき大病にかかり亡くなった。
1世紀ごろ
ニコデモは、イエスの時代に生き、ユダヤ人議会の議員、ファリサイ人の指導者であった。彼は、エルサレムでイエスを訪問し、神の国を見るとは何を意味するかを尋ね、イエスから「霊によって新しく生まれなければならないこと」を教えられた(ヨハネ3.1-10)。ニコデモは、すべてを捨ててまでイエスに従うことはしなかったが、イエスが逮捕されたときには、逮捕の不当を衆議会で訴えた唯一の人物であった。また彼は、アリマタヤのヨセフとともにイエスの遺体埋葬を手伝った。
1786年-1859年
ビアンネは、南フランスの農家に生まれ、信仰深い両親のもとで育てられた。当時、フランスは革命の混乱期にあり、司祭の不足で満足な信仰教育がなされてなかった。それに心を痛めたビアンネは、司祭になることを決意し、神学校に入った。家が貧しくて教育を受ける機会に恵まれなかったビアンネにとって、勉学に追いついてゆくことは大変なことであったが、苦労のすえ、1815年に司祭に叙階され、アルスの主任司祭に任命された。
ビアンネの慈愛溢れる教えと良い模範は、不熱心な人々ばかりであった村をキリスト教の精神に満ち溢れる村に変えたのだった。彼の徳の評判は広まり、多くの国から、人々が祝福やゆるしの秘跡を求めてやってきた。最後の1年間は10万人の巡礼者があったといわれている。
?-304年
アウクスブルク(現ドイツ)で生まれたアフラは、娼婦であったが、キリスト教迫害で追放された司教が彼女の母の家にやってきたときに改心した。そして今までの生活を償い、迫害のさなかにあっても、どんな苦しみをも忍んだ。ある日、彼女はキリスト信者であることを訴えられ、ローマの神々に犠牲をささげるように命じられたが、「私の体は罪に汚れていますから、苦しんでもかまいません。しかし、偶像を拝んで私の心を汚すことはできません」と言って信仰を守りとおし、火刑に処せられた。彼女の母も彼女を埋葬しようとして殺されたという。
アウクスブルク司教座聖堂にあるアンベルガーの画像が有名である。
4世紀ごろ
キリスト教の迫害が盛んなころ、スペインにおいても総督デシアンが、信仰を棄てなければ、死刑にするとの宣告を出した。まず子どもたちを脅かして信仰を棄てさせることが容易であると考えて、子どもたちを捕えた。その中にユストとパストルという2人の少年がいた。彼らは、むちで打たれるなど残酷な仕打ちを受けたが、互いに励まし合いながら決して信仰を捨てなかったため、アルカラ市で首をはねられた。その後、信者たちが2人の死体を発見して、彼らが殉教した場所へ埋葬したといわれる。2人は、アルカラとマドリッドの守護の聖人とされている。
3世紀
シスト2世教皇(在位257~258)は、前教皇ステファヌス1世(在位254~257)とカルタゴ(アフリカ)の司教チプリアヌス(在職 249~258)との間に生じた洗礼に関する論争によって、ローマと他の教会との分裂を修復しようと努力した。しかし、彼が教皇になったのは、バレリアヌス皇帝によるキリスト教迫害の時代だった。8月6日、カリストのカタコンベ(地下墓地)で典礼儀式の説教中に、助祭のヤヌワリオ、マニュス、ビンセンシオ、ステファノと共に捕らえられ、斬首された。他の2人も捕らえられ、隣の墓地で処刑され、ラウレンシオ助祭は拷問を受け、4日後に殺された。
そのすぐ後、9月14日に斬首された聖チプリアノは、彼らの殉教に力を得て、アフリカのキリスト教徒を励まして、こう語っている。「死よりも不滅の生命のことを考えよう。信仰と勇気をもって神に身を捧げたのだから。証しをたてるときは、恐れるよりも喜ぶように。私たちは� �されるのではなく、栄光の冠を受けると知っているのだから」と。
!doctype>そんざい
being; tre; Sein
有ともいう。哲学における最も根本的な概念。それゆえ十全に定義することはできない。通常,(1) 何か「がある」,(2) 「何か」がある,(3) 何かは何か「である」 (内的規定) の3様の意に用いられ,それぞれ,(1) 実存または実在,(2) 存在者,(3) 本質とも呼ばれる。中世スコラ哲学では可能態である (3) が,現実態である (1) によって現実化され (2) となると説明される。 (3) の観点から主語となって述語とはならない実体と,その逆の偶有が区別されている。また (1) と (3) との間には現実的な区別が存するか否かが大論争された。近世以後,存在は客観的に存してこれを主観がとらえるとする立場と,主観が構成するものとする立場とに分れた。 M.ハイデガーは存在者とその規定根拠としての存在を峻別する。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
存在
I プロローグ
存在 そんざい 古代ギリシャの昔から現代にいたるまで多くの哲学者たちを探究にかりたてた哲学上の重大なテーマ。存在と生成、存在と仮象、存在と思考、存在と当為というように、他の用語と対になってつかわれることが多い。
II さまざまな「存在」の意味
対置される概念に応じて、「存在」の意味はことなってくる。「生成(変化)」と対置される場合は、「かわらない永遠不滅なあり方をしていること」を意味する。「仮象(または現象)」と対置される場合は、「そのようにみえるのではなく本当にそのような状態にあること」を意味する。「思考(観念)」と対置される場合には、「心の中でそう考えられているだけではなくそういう状態で心の外に実在すること」を意味する。「当為(~すべきである)」と対置される場合は、「どうすべきかはとにかく事実はこうこうであるということ」を意味する。
そのほかにも対になる概念に応じて「存在」はさまざまな意味をもつので、どのような文脈で「存在」がつかわれているかをじゅうぶん見きわめることが大切である。
III 「である」と「がある」
また日本語の「存在」という訳語は、西洋語のesse(ラテン語)、be(英語)、sein(ドイツ語)、etre(フランス語)などと意味がかならずしも重ならないから、誤解しないようにしなければならない。というのもbeは、日本語の「~がある」という意味だけでなく、「~である」というときの「ある」も含意するが、日本語で「存在」というともっぱら「~がある」の意味に解されかねないからである。この2つの「ある」の区別が、すでに重要な哲学的テーマとなる。
IV 本質存在と現実存在
「~である」というときの「ある」が「本質存在」、「~がある」というときの「ある」が「現実存在」または「事実存在」とよばれて、2つの「ある」は古くから区別されている。たとえば、理想の国家とは社会の隅々まで正義がいきわたっている国家「である」というのは、理想国家の本質や定義をのべたものである。しかしそうした国家「がある」かどうかは別問題である。この国家が現実にあるかどうか、つまり現実存在は、そのような国家の本質存在とは別のことなのである。
V 「存在」観による分類
「存在」という概念がもつこの2つの意味のどちらを重視するかによって、西洋哲学の主要な哲学者をわけることもできる。一般に合理主義的な傾向をもつ哲学者は「本質存在」を重視し、経験主義的な傾向をもつ哲学者は「現実存在」を重視する。
1 合理主義者
最古の合理主義者パルメニデスは、「思惟(しい)することと存在することは同じひとつのことだ」といい、「あるものはあり、ないものはない」ともいうが、こうした謎(なぞ)めいた言葉も、「存在」や「ある」を本質存在と解すると、理解しやすい。プラトンのイデアもそうした用語法の延長上にある。個々の家が家「である」といえるのは、家のイデアによるのだとプラトンはいう。イデアがまずあって、それにあわせて個々の物がつくられると彼は考えた。
2 経験主義者
これに対して、経験を重んじたアリストテレスは、まず現実に存在する個々の物から出発する。まず個物「がある」。個物には、何からできているか(質料)と何「である」か(形相)の2つの側面がかならずそなわっているが、この形相こそプラトンのいうイデアだとアリストテレスは考えた。
しかしこの形相がどのようにして生じてくるかの説明に関しては、アリストテレスはプラトンに近づく。つまり形相はあらかじめ個物の質料の中に可能性としてやどっていて、それが現実に存在するようになっただけだと考えた。いずれにしろ、形相を個物の成立より前にあるものと考えた点ではプラトンと同じである。
→ 形相と質料
VI 神の存在証明
本質存在と現実存在という対概念は、中世以降神の存在証明においても利用されている。神は全知「であり」、最善「であり」、全能「であり」、そして存在「である」。だから神は存在する。神の本質存在、神の定義にはその現実存在がふくまれているという証明である。中世のアンセルムスにはじまるこのいわゆる「存在論的証明」は、形をかえて近代のデカルトやスピノザの哲学にもながれこんでいる。
→ 神の「神の存在の論証」
VII カントの「存在」観
「~である」に「~がある」がふくまれる場合があるとするこの議論を決定的に論駁(ろんばく)したのは、カントである。カントは現実存在と本質存在を明確にわけて、いくら理性で本質存在をくわしく論じても、現実存在はえられないと主張した。カントによると、何か「がある」と認識するためには、感覚や経験が必要である。他の点では合理主義者のカントは、この点では間違いなく経験主義者ヒュームの弟子である。
VIII ハイデッガーの存在論
カント以後、「存在」は哲学の中心的な話題となることがあまりなかったが、20世紀になってふたたび脚光をあびた。これにはハイデッガーの哲学が大きな役割をはたした。
ハイデッガーは存在者と存在を区別する。あらゆる学問はそれぞれ特定の存在者を研究するが、それらの存在者を存在するものたらしめている根拠までは問わない。そこにせまるのは哲学だけである。科学も宗教も芸術も人間によるなんらかの存在了解から生じる。その大本の存在了解をまず解明するのが哲学であり、彼のいう「基礎的存在論」である。
人間は、物や動物のようにただ存在しているのではなく、自分の存在を了解しながら存在している。しかも、その了解の仕方がその存在の仕方を(自覚していなくとも)きめている。その無自覚的な存 在了解を自覚化する作業が哲学である。
ふつう人間は自分の存在をさほどリアルに感じていないが、たとえば自分の存在の終わり(死)に直面したときには、自分がいま現に存在していることをありありと感じる。人間は自分が時間的に有限な存在者であることを自覚できる。神や動物にはそれができない。人間だけが無を媒介にして存在をテーマにできる。人間とは存在があらわれでる場だとハイデッガーは考えた。
→ 観念論:形而上学:現象学:死:死学:実在論:実存:実存主義:ノモスとピュシス:唯物論:唯名論:論理学
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存在と時間
存在と時間
そんざいとじかん
Sein und Zeit
1926年8月8日トトナウのスキー小屋で脱稿され,翌 27年春公刊されたハイデガー前期の大著。この書の究極的目標は存在一般の意味を問うことにあるが,公刊された第1部では,時間性へ向けての現存在の解釈,および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明のみがなされ,予定された第2部以降は発表されなかった。
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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
存在と時間
そんざいとじかん Sein und Zeit
M. ハイデッガーがその最初の主著に付した表題。1927年刊。ただし,この表題の著作ははじめ2巻に分けて発表される計画であったが,後に第2巻に相当する部分は公表を放棄されたので,実際には前半のみの表題としてとどまっている。この著作の主旨は,存在(存在者をさまざまな意味において存在するものたらしめている根拠)の諸相をそれの統一的意味へさかのぼって解明すること(これが哲学である),その諸相と統一的意味とをそれぞれの根源的体験の文脈へさしもどすことによって,伝統的存在論の凝結した図式性から解放すること,そして結局はさまざまな存在者の存在を人間存在の根本的意味としての時間性から解釈することにある。この最後の点は《存在と時間》の後半部分で具体的に展開される予定であったが,前半の発表後ま もなく,ハイデッガーは存在と時間との連関について一見逆転ともみえる根本的な再考を必要と考え,人間存在の意味としての時間性から存在とその諸相をみちびき出すのではなく,むしろ逆に,存在そのものに相属する時間から人間存在の意味を照明する方向へ力点を移していった。〈存在と時間〉から〈時間と存在〉への転回がハイデッガーの後期思索の歩みであると言われるゆえんである。この経緯は《ヒューマニズムについての書簡》(1947),《真理の本質について》(第2版,1949)の中でもっとも直接的に表明されているが,この思索の歩みは,前期の《存在と時間》の中ではまだ表立っていなかった〈ヨーロッパのニヒリズム〉との苦しい対決の中で切り開かれたものと考えられている。 細谷 貞雄
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ハイデッガー 1889‐1976
Martin Heidegger
ドイツの哲学者。西南ドイツの小村メスキルヒでカトリック教会の職員の長子として生まれ,普通教育のあと司教に嘱望されて1909年フライブルク大学に入学し,はじめ神学を,やがて哲学を修めた。この転向については,F. ブレンターノの《アリストテレスにおける存在の多様な意味について》(1862)という学位論文の精読から得た感銘が契機になったと伝えられる。はじめリッケルトや E. ラスクの代表する新カント学派の影響を受け,ついでフッサールの《論理学研究》(1900‐01)から決定的な啓発を受け,15年に同大学の私講師に任ぜられると同時に,フッサールの助手としてその指導のもとにアリストテレスの現象学的解釈にたずさわった。この哲学史研究を深めていくうちにフッサールの超越的観念論とたもとをわかち,アリストテレスの形而上学のうちに余映をとどめている初期ギリシア思想の存在経験の傾向を深化させ,これによって〈cogito,ergo sum〉を拠点としたデカルトに始まる近代的思惟の限界を突破することに努めた。23年マールブルク大学教授に転じ,ヨーロッパの形而上学の歴史についての多彩な解釈を展開するかたわら,新約聖書学者ブルトマンとの親しい対話のなかで西洋哲学の根本的基調を対比的に体得するに至った。この時期の思索の蓄積が主著《存在と時間》(1927)として公表され,1920年代のドイツ哲学界に深刻な衝撃を与えた。その構想はさしあたり,人間の実存から出発してそこへ帰着すべき解釈学的存在論と,これの基礎づけの提唱として表明された。この腹案は計画通りの完結をみるに至らなかったが,28年フッサールの講座後継者としてフライブルク大学に移り,そこで活躍するうちに,根本から変容された。彼は各学期の講義でヨーロッパ哲学史の由� �あるテキストの克明な解釈と根源的な批判を通じて,ますます近代哲学の限界を明らかにし,同時に《存在と時間》の本旨を深化して新しい地盤をたしかめることに努めた。その歩みはのちの多くの論著,なかんずく《ニーチェ》(1961)のうちにたどることができる。
33年ハイデッガーは不本意ながらフライブルク大学総長となり,ナチスの大学再編にもそれなりに荷担せざるをえなかった。そのドキュメントは《ドイツ大学の自己主張》(1933)と題する講演である。しかし,在任わずか1年でヒトラーの文教政策に失望して辞任,それ以後は深い孤独の中で,きびしい時代批判のなかから《存在と時間》の問題の再考に沈潜し,とりわけヘルダーリンの詩とニーチェの形而上学との批判的体得という作業のなかで新しい思索の深化と集中に努めた。この時期の思索の境涯はほとんどすべて,第2次大戦後にはじめて多くの著作の中で公表されたものである。45年ドイツの敗戦とともに休職し,50年にフライブルク大学に復帰,いわばハイデッガーの後期思想とも呼ぶべきものが相次ぐ論究の出版によって明ら かにされた。このハイデッガー思想の〈転回〉は1935年ごろから顕著な形をとりはじめ,その後の歩みは《存在と時間》に匹敵すべき体系的主著に集成されることなく,おびただしい解釈と論述の形でかなりの紆余曲折をたどっているので,明快な形で簡単にまとめることはできない。彼が自分の思索の様式を伝統的な体系とか理論とか方法の型に合わせず,率直に〈思索の道〉と呼んでいるのは,このためである。
若きハイデッガーの思索がどのような境涯と系譜から由来していたかを椿議することは困難な作業であるが,とにかく存在者の存在の意味を人間の実存的存在経験へ立ち帰って解明しようとして,その限りでフッサールの(デカルト的な)観念的予断を批判的に克服することに努めながら,問いつつさかのぼるべき根源的存在経験としては,なおキリスト教的実存(キルケゴールからブルトマンに至る血脈)にあまりにも深く連帯していたということは否めない事実である。キルケゴールへの一時的共鳴やブルトマンとの親交が,このことを証拠だてている。この意味で当時の実存思想が結局はやはり一種の(神学的な)世界疎外によって条件づけられていたということがしだいに摘発・自覚され,この自覚が後期への転回の強いモティーフに� �ったことは明らかである。〈転回〉の時期がヘルダーリン解釈(《ヘルダーリンの詩の解明》1944)とニーチェ批判によって占められていたことが,その間の内情をうかがわせる。なぜなら,ニーチェによって素描されていたものがキリスト教への反逆的な拘束を刻印されていることを明示するハイデッガーのヘルダーリン,ニーチェ解釈の主旨が,伝統的存在論(プラトン主義)の継承によって覆われていた悲劇的世界経験の再興をめざし,あるいはそれに対応することに向けられていたからである。
ここまで来ると,かつて《存在と時間》のなかでいわば形式的に導入されていた〈世界内存在〉という概念における〈世界〉もしくは〈世界性〉という概念が否応なしにある具体性を帯びてくることになる。存在・真理・世界は,決してその相関性を失うことはないが,その内実は変遷する。それも人類の歴史の重要な転換期ごとに存在・真理・世界がそのつど別な現象の系列として出現するというだけではなく,それらがきわめて早期からそれぞれの人間的意味を減衰させ,ついには存在と世界の喪失へむかって滔々と流れていくという含みを帯びてくる。すなわち後期ハイデッガーの思想は,その先端において〈ヨーロッパのニヒリズム〉との,ニーチェのそれとはまったく異なる対決へと呼び立てられるのである。この世界はギ� �シア人のいうコスモスでも,キリスト教徒の信じる摂理の舞台でもなく,もはやいかなる体系化も意味づけをも不可能にする渾沌,無へと突きすすんでいく過程そのものにほかならない。それゆえに,この動向に対応する哲学は,それ自身ある――いな特別の――歴史性を帯びざるをえない。〈故郷の喪失が世界の運命となる。それゆえに,この世界を存在史的に思索することが必要となるのだ〉とハイデッガーは述べて,彼の思想全体をつらぬくモティーフを明言している。彼が後期思想において語り出そうと努めているのは,このように無化しつつある世界の不安な消息であり,そしてこの世界を背景とも地盤ともして到来しつつあるヨーロッパの歴史全体の運命なのである。なお,主著には上記のもののほか,《カントと形而上学の 問題》(1929),《ヒューマニズムについての書簡》(付《プラトンの真理論》。1947)などがある。 細谷 貞雄
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ハイデッガー,M.
I プロローグ
ハイデッガー Martin Heidegger 1889~1976 実存主義的現象学を展開したドイツの哲学者。20世紀のもっとも独創的でもっとも大きな影響力をもった哲学者である。
バーデンのメスキルヒに生まれる。フライブルク大学ではじめにカトリック神学、ついで哲学をまなんだ。同大学で現象学の創始者フッサールの助手になり、1915年に同大学の私講師となった。23~28年マールブルク大学教授。28年にフライブルクにかえり、フッサールの後任として哲学教授になる。33、34年にヒトラーとナチズムを公然と支持したことで、敗戦後の45年、教授活動を禁止された。59年の退職にいたるまで、彼の大学での地位については論争がたえなかった。
II 存在と時間
ハイデッガーがフッサール以外にとくに影響をうけたのは、ソクラテス以前のギリシャ哲学者たち(→ ギリシャ哲学:西洋哲学)、およびキルケゴール、ニーチェである。ハイデッガーはみずからの理論を展開する際に、伝統的な哲学の用語法をしりぞけて、むしろ過去の思想家の著作をひとつひとつ解釈してゆく。彼は個々の言葉や表現に独創的な意味や語源をあてがい、多くの新しい合成語をつくりだした。
もっとも重要で影響の大きかった著書「存在と時間」(1927)は、存在とはなにかという問題をあつかう。この問題こそ哲学の本質的な問題であるとハイデッガーは主張する。しかし、この問題にこたえようとすれば、人間とはどのような「存在」かという問題にこたえなければならない。ハイデッガーによれば、人間は自分がつくったわけではない世界になげこまれている。この世界は、自然の物も文化的な物もふくめて、潜在� �に有用な事物から構成されている。これらの物は過去から人間のもとにとどき、未来の目的のために現在つかわれる。したがって、ハイデッガーは、物と人間と時間構造のそれぞれの存在様式の間に、日常的関係とは別の基本的な関係を設定する。
しかし、実際の人間は、こうした基本的な関係のうえではなく、より日常的な世界に生き、紋切り型のあさはかな大衆的行動などに埋没する危険につねにさらされている。人間は不安という感情によって、死と人生の最終的な無意味さに直面させられるが、これによってはじめて、存在と自由の真の意味がえられる。
III 存在の了解
1930年以降ハイデッガーは、「形而上学入門」(1953)などの著作において、西洋の特殊な存在概念の解釈をおこなうようになる。彼の考えによれば、古代ギリシャの畏敬(いけい)の念にみちた存在概念とは対照的に、現代の技術社会はひたすら効率的処理という態度を助長し、この態度は存在と人間の生活から意味をうばっている。彼はこの状況をニヒリズムとよぶ。人間はおのれの真の使命をわすれてしまっている。人間は、古代ギリシャ人たちによってなしとげられ、後代の哲学者たちによってみうしなわれた、より深い存在了解を再発見し、新しい存在了解をうけいれなければならない。
IV 実存主義その他への影響
人間の有限性、死、無、真正といった主題の独創的な論述のゆえに、ハイデッガーはしばしば実存主義とむすびつけられ、その著作はフランスの実存主義者サルトルに決定的な影響をあたえた。しかし、ハイデッガーは、自分の著作の実存主義的解釈を結局は否定した。彼の思想から直接的な影響力をうけたのは、フランスの哲学者フーコーとデリダ、ドイツの社会学者ハーバーマスである。1960年以降、ハイデッガーの影響力はヨーロッパ大陸をこえて、世界じゅうにますますひろがりつつある。
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風土
風土
I プロローグ
風土 ふうど 和辻哲郎の代表的著作。正式の名称は、「風土?人間学的考察」。副題に「人間学」とあるように、これは哲学的人間学の書である。
1925年(大正14)、京都帝国大学助教授に就任した和辻は、27年(昭和2)ドイツに留学、このときの船旅の印象が本書成立のきっかけをつくった。帰国直後の京大における講義草案を原型とし、35年岩波書店より刊行、読書界の大きな反響をよんだ。
II 人間存在把握の契機
全体は、第1章「風土の基礎理論」、第2章「三つの類型」、第3章「モンスーン的風土の特殊形態」、第4章「芸術の風土的性格」、第5章「風土学の歴史的考察」の5章からなる。第2章でしめされた東南アジアにおける「モンスーン」型、西アジアの「沙漠」型、ヨーロッパの「牧場」型という3分類は、船旅の印象的叙述とあいまって本書を著名ならしめた個所である。
!doctype>二日がかりになったスマナサーラ長老とのパティパダー7月号の原稿作成がだいたい終わり。
協会掲示板に質問が来ていたので、月刊『寺門興隆』2008年3月号に寄稿した原稿を以下に公開しておく。スリランカ内戦と仏教との関わりについてなるべく客観的に解説したつもり。見出しなど掲載原稿とちょっと違ってるが参考まで。
仏教国スリランカで内戦激化の本当の訳
佐藤哲朗 日本テーラワーダ仏教協会事務局長
◇マスコミが伝えない視点とは
二月四日に英国からの独立六十周年を迎えたスリランカでは、二〇〇二年のスリランカ政府と反政府武装勢力「タミール・イーラム・解放の虎」(以下、LTTE)の停戦協定が瓦解し、二十年来の内戦が再燃しています。北部で攻勢を強める政府軍に対し、LTTEは一般市民を狙った無差別爆弾テロで応酬し、犠牲者は増え続けています。
一般の報道では、スリランカ内戦は、人口の約七十四%を占める多数派のシンハラ人(大多数が仏教徒)の抑圧に対して、約十八%のタミル人(ヒンドウー教徒)の一部過激派が反抗しているという図式が描かれています。
しかし、スリランカという島国の枠から少し視野を広げ、南インド地域の中にスリランカと位置づけると様相は一変します。人口が約七千万人に達するインドのタミル・ナードゥ州を本拠とするタミル人の方が、域内で最大の民族集団になるのです。スリランカ国内だけを見ていては、スリランカ紛争の全体像は分かりません。
◇19世紀後半の仏教復興運動
スリランカで深刻な宗教・民族対立が生じた契機は、一八一五年にキャンディ王朝が滅亡し、スリランカ全域がイギリスの植民地になったことです。植民地化に伴い、国内に大量のキリスト教ミッショナリーが殺到すると、改宗したキリスト教徒が優遇され、多数派シンハラ人仏教徒は社会的成功を阻まれるようになったのです。この屈辱が、やがて仏教的信念に基づく独立運動に繋がります。
十九世紀後半になると、仏教徒たちはキリスト教宣教団のノウハウを真似て、国内外に仏教の正当性を訴えるようになりました。このスリランカの仏教徒の活動に着目したのが、東洋の叡智を求めてアメリカで活動していた神智学協会なる神秘主義団体です。神智学協会は会長のヘンリー・スティール・オルコット大佐(一八三二〜一九〇七)を先頭にニューヨークからインド経由でスリランカに乗り込み、三帰依五戒を受けて、仏教徒に「改宗」しました。
シンハラ人仏教徒は、オルコット大佐という優秀な白人オルガナイザーを前面に立てて植民地当局との交渉を優位に進め、仏教徒の地位向上を図ったのです。
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