■[現代仏教論]仏教国スリランカ内戦激化の訳
二日がかりになったスマナサーラ長老とのパティパダー7月号の原稿作成がだいたい終わり。
協会掲示板に質問が来ていたので、月刊『寺門興隆』2008年3月号に寄稿した原稿を以下に公開しておく。スリランカ内戦と仏教との関わりについてなるべく客観的に解説したつもり。見出しなど掲載原稿とちょっと違ってるが参考まで。
仏教国スリランカで内戦激化の本当の訳
佐藤哲朗 日本テーラワーダ仏教協会事務局長
◇マスコミが伝えない視点とは
二月四日に英国からの独立六十周年を迎えたスリランカでは、二〇〇二年のスリランカ政府と反政府武装勢力「タミール・イーラム・解放の虎」(以下、LTTE)の停戦協定が瓦解し、二十年来の内戦が再燃しています。北部で攻勢を強める政府軍に対し、LTTEは一般市民を狙った無差別爆弾テロで応酬し、犠牲者は増え続けています。
一般の報道では、スリランカ内戦は、人口の約七十四%を占める多数派のシンハラ人(大多数が仏教徒)の抑圧に対して、約十八%のタミル人(ヒンドウー教徒)の一部過激派が反抗しているという図式が描かれています。
しかし、スリランカという島国の枠から少し視野を広げ、南インド地域の中にスリランカと位置づけると様相は一変します。人口が約七千万人に達するインドのタミル・ナードゥ州を本拠とするタミル人の方が、域内で最大の民族集団になるのです。スリランカ国内だけを見ていては、スリランカ紛争の全体像は分かりません。
◇19世紀後半の仏教復興運動
スリランカで深刻な宗教・民族対立が生じた契機は、一八一五年にキャンディ王朝が滅亡し、スリランカ全域がイギリスの植民地になったことです。植民地化に伴い、国内に大量のキリスト教ミッショナリーが殺到すると、改宗したキリスト教徒が優遇され、多数派シンハラ人仏教徒は社会的成功を阻まれるようになったのです。この屈辱が、やがて仏教的信念に基づく独立運動に繋がります。
十九世紀後半になると、仏教徒たちはキリスト教宣教団のノウハウを真似て、国内外に仏教の正当性を訴えるようになりました。このスリランカの仏教徒の活動に着目したのが、東洋の叡智を求めてアメリカで活動していた神智学協会なる神秘主義団体です。神智学協会は会長のヘンリー・スティール・オルコット大佐(一八三二〜一九〇七)を先頭にニューヨークからインド経由でスリランカに乗り込み、三帰依五戒を受けて、仏教徒に「改宗」しました。
シンハラ人仏教徒は、オルコット大佐という優秀な白人オルガナイザーを前面に立てて植民地当局との交渉を優位に進め、仏教徒の地位向上を図ったのです。
マルディグラのために何を祝っている
オルコットの弟子であるアナガーリカ・ダルマパーラ(一八六四〜一九三三)は、スリランカの仏教復興運動をさらに発展させました。彼はスリランカ南部をルーツとするシンハラ人エリートの出自ですが、国際的な仏教連帯を訴え、荒廃の一途にあったブッダガヤ、サルナートなどインド仏教遺跡を仏教徒の手で復興させる活動を展開しました。
しかしそんな華々しい仏教復興運動の裏面で、スリランカ国内では、民族と宗教と政治をめぐる新しい葛藤が生じ始めていました。
◇戦後シンハラ優遇政策の影響
ダルマパーラはスリランカ国内において、コスモポリタン的仏教徒ではなく、先鋭的な民族主義者として振舞いました。植民地支配下で誇りを失っていた一般大衆に、「我々シンハラ人は、偉大なるブッダの教えを二千三百年守り続けてきた聖なる(アリヤ)民族である。スリランカはブッダに祝福された仏法の島(ダンマ・ディーパ)である」と訴えて、民族意識の覚醒を促したのです。仏教と民族意識を結びつけた彼のアジテーションは、他宗教との深刻な摩擦を生みました。しかし植民地時代には、シンハラ人とタミル人との間の民族紛争は表面化しませんでした。シンハラもタミルも同じインド文化圏に属しています。セム系一神教を奉じる「異質」の西欧のキリスト教徒やイスラム教徒と比べれば、自分たちは長い歴史を� ��有するインド文明の申し子であり、同じセイロン人である、という意識も生まれていたほどです。
その関係が一変したのは、第二次世界大戦後のスリランカ独立でした。新国家のリーダーとなったシンハラ人政治家たちは、植民地体制の正常化には、社会の全領域において、多数派のシンハラ人が主導権を握るべきことが不可欠であると訴えました。
結果、シンハラ語を唯一の公用語とすることを含む「シンハラ・オンリー政策」と呼ばれる極端なシンハラ優遇政策が導入されました。この政策を草の根で推進した仏教僧侶を含むシンハラ知識人は、独立後の公用語をシンハラ語とすることで、英語教育を受けたエリート以外にも地位向上の道を開こうとしたのです。
しかし、それは官職に多く進出していたタミル人の既得権を奪い、彼らを二級市民に貶める結果をもたらしました。
◇シンハラ・タミル内乱の発端
一九五九年、シンハラ・オンリー政策の旗振り役だったスリランカ自由党(SLFP)のバンダーラナーヤカ首相が、僧侶統一戦線に属するシンハラ至上主義の仏教僧侶によってピストルで射殺されます。「仏教国家を守るためには仏敵は誅すべし」という極端な思想は、井上日召の「血盟団」を彷彿とさせるものです。ただし、上座部仏教圏で僧侶が殺人を犯すことは即刻の破門条項のため、事件の背景には疑問も残ります。
混乱をさらに悪化させたのが政治家でした。シンハラ人エリートに牛耳られた二大政党は人気取りのためにシンハラ人優遇政策を取り、タミル人との約束を反故にする背信を繰り返したのです。
ユッカは、保育を行う
一九七七年、サンフランシスコ講和会議での名演説を通して日本で有名なジャヤワルデナ率いる統一国民党(UNP)が政権を握ると、経済自由化によってシンハラ人、タミル人ともに貧富の差はさらに激しくなりました。経済的困窮者が大量に発生し、反政府運動は燃え上がりました。政府の抑圧に、シンハラ人のなかでもマルクス主義過激派のJVPが南部で反乱を起こし、軍との戦闘で数万人の若者が命を落としました。
やがて、社会的矛盾を民族・宗教問題に転化しようという常套手段に依って反タミル感情が醸成され、一九八三年七月に武装グループが組織的にタミル人を襲撃する大量虐殺事件が起きます。犠牲者数は公式には四百人とされ、二千〜三千人が殺されたという説や、四千人にまで誇張するLTTEの宣伝まで諸説あります。襲撃が組織的に計画され、それに統一国民党(UNP)政権幹部が関わっていたことでタミル系の人々のスリランカ政府への信頼を完全に失わせる結果となりました。追い込まれたタミル人過激派は、分離独立を目指し、武装闘争を本格化させます。諸派のなかでもっとも強力な武装組織を率いてきたLTTE(タミル・イーラム解放の虎 一九七六年結成)が、神がかったタミル・ナショナリズムを掲げて台� ��したのです。以来、スリランカは暴力の坩堝に放り込まれ、血みどろの内乱に突入します。一九八七年には、インド平和維持軍がスリランカ北部に進駐するという、南アジア全域を巻き込んだ深刻な事態に陥るのです。
◇LTTEが情報戦に勝利
タミル人過激派はインドのタミル・ナードゥ州という巨大な背景をもち、州政府やインド中央政府や各国諜報機関の支援を受けて軍事訓練を行い、強力な軍隊を形成していきました。タミルの覇者となったLTTEはスリランカ政府軍を圧倒して北部と東部を実効支配します。
さらに彼らは、シンハラ人入植者や東部でタミル人と共存してきたイスラム教徒を大量虐殺し始めたのです。一九八三年の反タミル暴動以降、スリランカで起こる虐殺事件は、LTTEが組織的にシンハラ人やイスラム教徒を抹殺するという一方的な「民族浄化」に変質しました。
ところが、一九八三年の反タミル暴動がクローズアップされたばかりに、それ以後にLTTEが起こした虐殺事件はあまり報道されませんでした。後述するように、世界中に拡散したLTTEシンパとの情報戦に、スリランカ政府は敗北したのです。それは同時に、LTTEがシンハラ仏教徒や他のスリランカ人を何人殺しても世界は何の関心も示さない、という「国際社会への不信と孤立感」をシンハラ人たちに植えつけました。
罪悪感は、父の義理のトリップ
その後の内戦の経過を早足で見てみましょう。一九八七年のインド平和維持軍進駐は「外国軍」による支配であり、その存在はLTTEのみならずタミル系の一般大衆に反インド感情を植えつけました。一九九一年には、タミル・ナードゥ州で選挙運動を行っていたラジヴ・ガーンディ首相がLTTEの自爆テロによって暗殺され、LTTEはインド国内で足場を失います。スリランカの分離独立をインドが容認することは、インド国内に抱えるカシミール州やパンジャブ州の独立問題に正当性を与えることになります。首相の暗殺という高い代償を払ってその矛盾に気づいたインドは、スリランカ内政問題から手を引いたのです。
一九九〇年代を通じて、LTTEはスリランカ政府軍に対して軍事的優位を保ちました。その源泉となったのはスリランカから難民として世界各国に数十万人単位で移住したタミル人のネットワークです。難民となった彼らが移住先で得た資金は、「本国」スリランカで活動するLTTEに大量に流れ込みました。また欧米各国では「難民」としてのタミル人の主張がマスメディアで優先的に報道されるので、政治的にも、タミル人は欧米で一定の影響力を持つようになりました。
◇同時多発テロ後の反政府組織
欧米諸国がタミル人を支援した背景には、宗教が絡む微妙な問題があります。タミル系の人々は、シンハラ仏教徒に比べてキリスト教との親和性が高いということです。タミル・ナードゥを歩くとキリスト教会が目に付きます。南インドにはキリスト教伝道の古い歴史があり、「ヒンドゥー」とされるタミル系の人々にも意外とキリスト教徒が多いのです。LTTEもそのイメージを最大限に利用して、欧米諸国の「十字軍気分」をくすぐってきました。頑固にキリスト教化を拒む「異教」仏教徒シンハラ人に弾圧されるキリスト教徒(またはキリスト教化を待ちわびる)タミル人、という図式は、国際メディアの論調を規定してきました。スリランカ紛争は「受難者」タミル人を全世界に拡散させ、虚実入り混じったシンハラ人仏� ��徒へのネガティブ・キャンペーンを定着させます。シンハラ人は、「血に飢えた僧侶によって扇動されている」とレッテルを貼られ、世界中を敵に回してしまうことになったのです。
しかしこのLTTE優位の情勢も二〇〇一年九月一一日にアメリカで起きた同時多発テロにともなう「反テロリズム」の風潮によって一変します。LTTEが行ってきた麻薬取引や海賊行為、人身売買などの裏ビジネスが明るみとなり、彼らがアル・カイーダなど国際テロ組織とも深い結びつきを持っていることが判明し、それまでLTTEの活動に寛容だった欧米諸国でも相次いでテロ組織指定がなされ、資金源が断たれることになったのです。また、各国に定住したタミル系難民も脅迫的なLTTEの強制献金に嫌気が差しLTTEから離れていきました。何よりLTTEはスリランカの支配地域で恐怖政治をひいており、多数の子供たちを誘拐し、軍事キャンプで洗脳して少年兵として前線に送り込んできました。
二〇〇二年二月には政府軍とLTTE双方が停戦に合意します。しかし和平交渉は進展せず、二〇〇四年十二月のスマトラ沖地震に伴う津波の被害が、LTTEが実効支配していた東部沿岸地域に集中したこともあり、タミル社会の疲弊は臨界点に達したのです。スリランカのタミル人の多くは現在ではLTTEをスリランカ政府軍よりもひどい抑圧者としてみなすようになりました。東部州のLTTE東部の部隊がカルナ派なる分派を作って離反。スリランカ政府と連携したことでLTTEは東部の支配権を喪失しました。北部においても政府軍の攻勢によって追い詰められています。
◇民族共存共栄の道しかない!?
スリランカ内戦の歴史的背景を見てきました。しかし、この内戦の背景となってきたシンハラ仏教ナショナリズムは、すでに命脈が尽きかけた思想であると私は思います。スリランカの「政治的僧侶」のルーツはやはりアナガーリカ・ダルマパーラに帰されます。半僧半俗の「規格外の仏教者」だったダルマパーラに比べると、後に台頭した政治的僧侶は、在家から絶大な尊敬を受ける立場を利用して政治家となった点で、退廃と俗化が激しいと言えます。彼らは、仏教徒たるシンハラ人の権益の擁護がすなわち、普遍的な価値を持つ仏教を守ることにつながる、と主張しています。仏教徒たるシンハラ民族の伝統と遺産を守らなければ正法が失われてしまうという、護法意識と表裏一体になったナショナリズムです。しかし、一九� ��三年の反タミル暴動と引き続く内戦は、国民の間に無用の対立を生み、数多くの前途ある若者たちの命を奪い、スリランカの発展を何十年も遅らせました。特定のエスニック集団の利益を追求する思想、ブッダの教えを生きることなく、「仏教徒に生まれた」というだけで優越感に浸る思想の空しさ、有害性はもはや誰の目にも明らかです。
同時に、LTTEを「受難者」扱いする論調も改められるべきです。LTTEはタミル・イーラムという国家をスリランカの小さな島のなかで独立させることを要求しています。LTTEの主張する広大な「領土」にはシンハラ人やイスラム教徒、他のマイノリティ集団が多数住んでいます。彼らはLTTEから民族浄化の対象となって虐殺の脅威にさらされてきました。LTTEによる国家分割を認めれば、多くのスリランカ国民を生存の危機にさらすことになります。
スリランカの仏教徒も一枚岩ではありません。しかし大多数の仏教徒や僧侶の間では、スリランカのどんな宗教の人であれ、どんな民族の人であれ、共存共栄できる体制を築かなければならない、という意識が共有されていることは間違いないでしょう。それこそ、選択の余地のない唯一の道だからです。
奇しくも昨年は、一九五六年の仏紀二五〇〇年祭から五十年目の節目の年でした。スリランカでは、仏紀二五五〇年を祝う「ブッダ・ジャヤンティ」が大々的に挙行されました。その五十年前、仏紀二五〇〇年祭を主導し、世界仏教徒連盟(WFB)を組織してアジア仏教徒の連帯を実現したのは、ダルマパーラの遺志を継いだスリランカの仏教徒たちでした。「大東亜戦争」敗戦で打ちひしがれた日本仏教徒もまた、彼らの支援によって国際社会への復帰を果たしたのです。五十年の混迷を経て、スリランカ仏教は再びアジア仏教界の盟主として尊敬を集めることができるのか。多民族多宗教の共存という難題に万人の納得する答えを出せるのか。仏教国スリランカの歩みは、文明史的な意義を持って続いています。
初出:『寺門興隆』2008年3月号(興山舎)
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