「夏なんです」というより、季節はもう「夏じゃないんです」に足を踏み入れつつありますが、八月に入ってからずっと、取り上げるべきかどうか迷いつづけ、とうとう今日まで持ち越してしまいました。でも、この曲をご存知の方ならおわかりでしょうが、夏の終わりを歌った曲でもあるのです。
迷った理由はいろいろあって、いくぶん複雑なのですが、そういう込みいった話はみなあとまわしにして、とりあえずは歌詞を見てみましょう。日本語なので、あれこれいう必要がなくて、今夜は左団扇です。
◆ 盛夏にはじまり…… ◆◆
今回は歌詞をテキストにしません。かわりに、当時のLPの歌詞カードをスキャンしたJPEGを使わせてもらいます。手書きで、変則的なレイアウトをしているのため、まず全体像のJPEGをどうぞ。
右側の花の絵をグルッとひとまわりしている文字も歌詞で、ブリッジ部分が書いてあります。あとで拡大したものをお見せしますので、見えないぞ、などと下品なことをおっしゃるのはしばらくお控えを願いましょう。
では、ファースト・ヴァースのみを以下に。
ご覧のように、ギンギンギラギラとくるのだから、このヴァースは盛夏のことを歌っているように思われます。ひとつだけここで注目すべきは、これは青少年の夏休みではなく、子どもの夏休みだということです。
うちのHDDには5万曲近いファイルが入っていますが(クレイジー・キャッツの「五万節」を思いだして、まずいですよね、検索ソフトの検索結果の数字は47035曲。これにプラスすることの、検索から除外している日本の曲、で、ほぼ5万曲なのです)、たぶん、どの夏休みの歌もミドルティーン以上の話で、小学生の夏休みを歌ったものというのは、この曲の他には存在しないのではないでしょうか。しいていうと、ジェリー・ゴーフィンが書き、デイヴィッド・クロスビーが「わたしはこれでバーズをやめました」といっ ている(好きにしろ! おまえなんか口先だけの業界ゴロ、ジェリー・ゴーフィンは大作詞家だ)、Goin' Backが近い雰囲気をもっているか、というあたりです。
考えてみればそれも当然で、Summertime Bluesでエディー・コクランがいっていたように、「助けてあげたいのは山々だけれど、まだ選挙権がないんじゃね」なんです。小学生はバイヤーではない、よって小学生をあつかった歌詞は商売にならない、とまあこうくるのでしょう。はっぴいえんどが売れなかったのも当然か、とまではいいませんがね。
◆ 夏はひと色ならず ◆◆
つづいて、セカンド・ヴァース。
みなさんはどうお感じになるか知りませんし、地方によって事情は異なると思いますが、松本隆が少年時代を送った東京を含む南関東では、ホーシーツクツクの蝉の声、と法師蝉が鳴きはじめれば、もう夏も後半です。
まず、七月の夕方に蜩が鳴きはじめるのが夏の開幕、つづいて油蝉の鳴き声がフェイドインし、そしてミンミン蝉が登場すると、うだるような暑さになります。ツクツク法師が鳴きはじめると、ああもう夏休みが終わっちゃう、なんて、すくなくともわたしが小学生だったころには感じたものです。
というわけで、ほかの方はいざ知らず、わたしはこのヴァースで、ああ、夏休みももう指折り数えるほどなんだな、と感じます。
フォールズチャーチ、バージニア州にある"ダンス·コンテスト"
「舞い降りてきた静けさが、古い茶屋の店先に、誰かさんといっしょにぶらさがる」というのは、ちょっとunusualな表現ですが、これが詩というものの本質です。こういう表現に、当時の歌謡曲の歌詞とはまったくちがう、日本語の歌詞というものの可能性を感じました。
◆ 「くるくる」か「ぐるぐる」か ◆◆
このあとでブリッジが登場します。お約束どおり、読めるように拡大したJPEGをどうぞ。
PCのまえで立ち上がって、頭を逆さにして読んだりなぞしないように願います。ダウンロードして、ヴュワーの画像回転機能を使うか、印刷するのが正常な対処方法です。
この歌詞カードを久しぶりに読んで、「あれ?」と思いました。わたしは「日傘くるくる」ではなく、「日傘ぐるぐる」と濁って覚えていたのです。音を聴き直すと、やっぱり細野晴臣も「ぐるぐる」と濁って発音しています。松本隆がこの曲を書いた段階では「くるくる」だったのが、録音の際に歌いやすいように「ぐるぐる」と変えたのかもしれません。
それではファイナル・ストレッチ、サード・ヴァースです。
これで、八月の終わりにこの曲をとりあげるのが、時季はずれではないことがおわかりでしょう。入道雲は盛夏に見られるもののような気がしますが(上昇気流がつくりだすものなので、気温が高くないと発生しない)、松本隆が気象学を学んだとは思えないので、そのへんは目をつぶることにします。
「空模様の縫い目をたどって、石畳を駆け抜けると」というのは、またしてもややunusualな表現ですが、わたしには、子どもたちが遊んでいるようすを素直に、ただし、ちょっと端折って書いたように思えます。空模様の縫い目、とは、雨が降ったり、日が照ったりという、その入れ替わりをいっているのではないでしょうか。
◆ 水牛ならぬ、モビー・ハルム・エンド ◆◆
はっぴいえんどについては、近年はいやというほど言葉があふれていて、こういうときにはむしろ口をつぐむべきような気もするのですが、人は十人十色、わたしがなにかいうのもまったくの無駄でもないかもしれないと思うことにします。
まず、だれでもいっていることを確認しておきます。「夏なんです」のベースになったのは、おそらくモビー・グレイプのセカンド・アルバム「Wow!」に収録された、Heという曲でしょう。すくなくとも鈴木茂のギターというか、イントロはHeを参考にしたと考えます。
はっぴいえんどというと、バッファロー・スプリングフィールドと、モビー・グレイプの名前があがることになっていますが、バッファローを感じさせる曲はあまりありません(先日のMLでの話、書いちゃいますよ>Kセン� ��)。しいていうと、「はいからはくち」とUno Mundoにいくぶんの近縁性を感じなくはありませんが、この曲ではグレイプのCan't Be So BadとOmahaも参照したように感じます。
デビュー盤でも、とくにバッファローを思い起こさせる曲はなく、むしろ、細野晴臣がオルガンをプレイした曲に、プロコール・ハルムの強い影響を感じます。松本隆のドラミングもB・J・ウィルソンを意識しています(それは大滝詠一のデビュー盤に収録された「乱れ髪」にいたるまで遠く響きつづけます。「乱れ髪」のバッキングはハルムのAll This and Moreです)。
トスカフォールズチャーチ
モビー・グレイプのセカンド・アルバムWOW! 米盤には付録として、マイケル・ブルームフィールドやアル・クーパーとのジャム・セッションを収めたGrape Jamというアルバムもついていたが、日本では2枚に分割して売られた。のちに、米軍基地のPXでこの盤を買ったとき、Jamはほんとうに付録で、1枚ものの値段と同じだった。じっさい、つまらない盤で、付録以外のなにものでもない。そういうものを独立した商品として売りつけるという不誠実なビジネスをしたのだから、当今の音楽産業の苦境は、天網恢々疎にして漏らさず、勧善懲悪の結末だろう。
全体にグレイプの雰囲気が漂うのは、まず第一に鈴木茂のトーンがグレイプの3人のギタリストのだれか(いまだにどのプレイがだれなのかわからないのです)に近いからでしょう。たとえば、Changesのオブリガートやソロなど、そのまんま鈴木茂のトーンです。
こちらはWOWの裏ジャケ、裏から読んでも、逆から読んでも、やっぱりWOW。
もうひとつは、細野晴臣のプレイに、グレイプのベーシスト、ボブ・モズリー(エアプレインのジャック・キャサディー、デッドのフィル・レッシュと並ぶ、ベイ・エイリアのベーシスト三羽がらすのひとりだと思います)のスタイルを強く感じるからです。ミュートの使い方もよく似ていますし、なによりも、5度のフラットを経過音に使うフレーズに、モズリーの影響を感じます。たとえば、キーがCなら、C-E-F-F#-Gと弾くフレーズのことです。Cは3弦(ベースの)、あとは4弦に下がって、オープンEから半音ずつ上げていくというプレイです。
これはキャロル・ケイもときおり使っていたフレーズですし、彼女は5度のフラットという不協和音を、有効なテンションとして和声にとりこんだそもそもの淵源である、ビーバップの出� ��ですから、こちらを経由して取り込まれた可能性もありますが、全体の雰囲気を考えると、やはりモズリーだと思います。最近、細野晴臣がキャロル・ケイについて書いている文章を読んだので、この考えはちょっとぐらつきかけていますが。
ジャケットの印象が強いので、グレイプの代表作をWOWであるかのようにいう人がけっこういるが、彼らがほんとうによかったのは、このデビュー盤だけといってもよい。あとのアルバムはせいぜい佳作と愚作のごった煮、あとのほうにいくと、割りたくなるようなひどさになる。
◆ インディーズ・バンド!? ◆◆
はっぴいえんどをはじめて聴いたのは、URCレコードの会員だった友だちの姉さんが貸してくれた、のちに「ゆでめん」と通称されるようになったエポニマス・タイトルのデビュー盤でした。
URCの盤が、当初はサブスクラバー・オンリーで頒布されていたなんてことは、もう最近のファンの方はご存知ないでしょうから、あらためて強調しておきます。当時は、あの盤は店頭には並んでいませんでした。URCレコードの会員になって、郵送してもらわないと手に入らなかったのです。借りたものが気に入って、わたしが自分の盤を買ったときには、もう店頭に並んでいたので、ごく初期だけのことだったのですが。URCというのは、いまでいうインディーズだったのです。
URCがそういうレーベルであり、はっぴいえんどがそういう会社に所属していたということは、「押さえておく」べきことだと思います。当時のメイジャー・レーベルはあのグループの可能性を見抜けなかった(つまり、リスナーのマジョリティーの関心を喚ぶものではない、という「商業的には正しい」判断)というネガティヴな意味と、やがてURCの盤はメイジャーを通じて配給されるようになり、「ある流れ」をつくっていくというポジティヴな意味の両方においてです。
◆ 早すぎたバンドと早すぎたファン ◆◆
思いだすのは、寒々とした冬の神田共立講堂です。客はほんの一握り、暖房はきかず、コートで膝を覆い、震えながらはっぴいえんどをみました。オープニング・アクトは遠藤賢司(「カレーライス」)でした。いや、ひょっとしたら逆だったか。寒かったのは客がいないせいでもありました。満員電車は暑いけれど、ガラガラ電車は寒いのと同じ原理。
デビュー盤が出てすこしたってからのことで、まだ2枚目の『風街ろまん』は未来のこと、セカンドどころか、はたしてこのバンドが来月、まだ存在しているだろうかと心配をしなければならないほどでした。
彼らは愛想笑いひとつするでもなく(当時はそのほうが客に歓迎される雰囲気がありました。グループサウンズ的な愛嬌は時代遅れになっていたのです)、ときおり 大滝詠一が「つぎは『春よ来い』という曲です」などとボソリといい、すくないけれど、彼らのデビュー盤を聴きこんだファンばかりの客席から、そのたびに暖かいような、わびしいような、なんともいえない拍手がおきました。
彼らのプレイ自体は、投げやりでもなければ、熱が入っているわけでもなく、ただ黙々と「やるべきことをやる」という雰囲気でした。「いらいら」がいい出来だったと記憶していますが、あるいは、それまでただベースを弾いているだけだった細野晴臣がコーラスに参加したことにホッとしただけかもしれません。デビュー盤には入っていなかった「はいからはくち」を聴けたことも収穫でした。
ふと思いついて、だれも誘わず、ひとりで見にいった受験生のわたしは、終わって外に出てみたら、予備校帰りの受験生の集団に出会い、ちょっとだけうら寂しいような気分で帰りました。
◆ 「いい夜」の違和感 ◆◆
そのつぎはいまはなき大手町のサンケイ・ホールでした。『風街ろまん』は、友だちのだれもが買う「大ヒット」になって、こんどはバンド仲間がいっしょにいきました。でも、箱が大きいせいもありましたが、今度もまた、半分以上が空席でした。考えてみると、もうこのころ、彼らはバンドに終止符を打つつもりになっていたのだと思います(3枚目が出たのはたんなる僥倖だったのはご存知のとおり)。
客はすくないけれど、共立講堂のときよりはにぎやかな雰囲気が、ステージと客席にありました。それは大滝詠一のソロ・シングルになった「恋の汽車ポッポ」のような明るい曲もやったせいかもしれません。あのころもっとも好きだった「朝」のエレクトリックなアレンジは、まったくなじめませんでしたが。
つぎは1973年9月21日、文京公会堂でした。日付を記憶していたわけではなく、ライヴ盤にデカデカとそう書いてあるだけです。すでに彼らは解散し、なんのためかは知りませんが、ワン・ショットの再編による一日だけのライヴでした。それまでの2回とはまったく雰囲気がちがいました。会場の外に行列ができていたのです。しかも、列のなかには数人の友人や高校の後輩たちがいて、「やあ」とか、「おお」とか、「なんだ、きてたのかよ」と挨拶が飛びかい、仰天しました(わが母校は、軽音楽部の全員がはっぴいえんどファンといってもいいくらいだったのです)。
外の雰囲気はそのまま会場の雰囲気になりました。ワン・ショットだったため(「李香蘭日劇七廻り半事件」と同じ!)、客が入りきれなくなり、通路に補助椅 子が出たのには、ほんとうに驚きました。あの寒々とした神田共立講堂はなんだったのか。
彼らもまた、にこやかにプレイしていました。「夏なんです」を歌うとき(細野晴臣がライヴで歌う、というだけで驚きましたが)、譜面台がステージに運ばれ、「歌詞を忘れちゃったもので」と弁解したときには、会場全体があたたかい笑い声で包まれました。
いい夜でした、といってすませられれば、ハッピーエンドなのですが、共立講堂のときとは異なる意味で、いや、正反対の意味で、うら寂しいような気分になりながら、後楽園球場の脇を抜けて帰路につきました。
◆ 死んで咲いた花実 ◆◆
彼らの評価が現在のように極大に達する兆しは、すでに文京公会堂の再編コンサートのときにありました。それ自体はけっして悪いことではありませんが、手放しで歓迎できるようなことでもありません。
パリでおこなわれた自作の回顧上映に招かれ、ステージにあがって挨拶したドン・シーゲルは、満員の客に向かって、「君たちは、わたしが君たちを必要としていたときに、いったいどこにいたんだ?」といったと、たしか小林信彦が書いていました。
客というのはそういうものなので、そんなことをいってもはじまらないのですが、評価を受けるようになったのはキャリアのごく終盤にすぎなかった映画監督のボヤきは、はっぴいえんどのボヤきでもあるのではないかと思います。いや、ほんとうは、だれも誘える雰囲気 ではなく、ひとりで神田共立講堂にいき、寒さに震えながらはっぴいえんどをみなければならなかった、さびしいファンのボヤきなのです。
エイプリル・フールのこと(そのつづきだから、ヴァレンタイン・ブルーだったのでしょう)、デビュー盤と「風街ろまん」のアイロニカルな落差、その後の年月のあいだに、わたしの心のなかで逆転した大滝詠一と細野晴臣の位置、彼らのもうひとつの夏の歌である「暗闇坂むささび変化」と、グレイトフル・デッドのFriends of the Devilのこと、書くべきことは山ほど用意していたのですが、すでにTime Is Tight、写真の用意もしなければいけないし、話のキリもいいようなので、幕を下ろすとします。
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